2010年08月12日

囚人とジレンマ


閉塞感とそれを打破できない無力感。

そいつだきっと。

周りに広がるは可能性だらけの大きな空間。

にも関わらず。

足元を絡めとられて身動きできず、
ただただ一人もがくだけ。

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2010年08月02日

水と緑の環境週間2010、終了。


長かった10日間のイベントが終わった。

このイベントでの役割は何だったのだろうと思い返す。
プランナー、コピーライター、アートディレクター、グラフィックデザイナー、
プロマネ、広報、プリンティングオペレーター、舞台監督、記者、司会進行、…
なんかほかにもいろいろ。

他の(僕にとっては)大きな案件とも重なり、とにかくフル回転だった。

そのなかで新たに見えたものもあれば信を強くしたものもある。

ただ、やっぱり長かった。
そして正直なところしんどかった。

今夜だけは開放感に浸りながらゆっくり休みたい。

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2010年07月20日

蒸し暑い夜に。

まずい。ひどく追い込まれている。

土曜日の夜半(というか明け方)にした話、
日曜日につくば市の和綿畑で感じたこと、
きょう月曜日にエコプラザで開いた秋葉悦子さんの
講演会で考えさせられたこと。

間違いなく、アウトプットして整理しておいたほうがよいが、
自分の感情を観察したり、思考を整理したりする時間的な余裕が
どうにも足りない。

とりあえず、少しまとまった時間が取れたところで
改めて書くことにして、ここにメモとして書き残しておく。

それにしても、7月に入ってからの時間の流れ方。
いつにもまして早い。そして長い。
1週間前の出来事がはるか彼方のことに感じられる。

それだけ多くを感じ、多くを行なっているということか。
自分の軸だけはきちんと気を遣るよう心がけるとして、
もうしばらくは全力で走りつづけてみよう。

走るからこそ見える景色も、触れられる感覚もありそうだ。
そこにもう少しでタッチできそうな気がする。

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2010年07月17日

空のいろ、夏。

空が夏のいろをしている。

きょう最初の、そして一番の気づきだった。

突き抜けない、粘度のある、黄味の強い光にみちた空。
妙にやさしいいろをした懐かしい感じのするこの空をみて、
ついに夏がきたのだとはっきり認識した。

新しい部屋にはそれなりに大きな窓がある。
そのすぐ前にベッドを置いているので、眠る前や起きたときは
必ずカーテンをちらっとめくり空を覗き見る。

珍しく部屋にいるときは、朝だろうが夜だろうが
カーテンを開けひろげて空を眺めながら生活をする。
(雨でなければ窓を開けて風も入れる)
(水分を含んだ具合やにおい、温度も感じる)

なんとなく眺めるときもあれば、じっくり観察するときもある。
ひとりでぼんやり見上げることもあれば、
誰かとこっそり覗きみることもある。

そんないつもの窓からみた今朝の空。
昨夜半の群青色をしたあのきれいな空からつづくこの空が
妙に僕をかき立てたのだった。

夏がきた、外に出よ。と。
ラベル:季節 くらし
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包丁とまな板と。

あまりにも貧弱な台所まわりの様子をさらした
前回の記事から2週間ほど。
ここにきて少しずつ台所道具が増えてきた。

包丁、まな板、ボールにザル、計量スプーン…。
誰かにいただいたり、目に留まったものを買っていったり、
ひとつひとつ確実に増やしていく。

その感覚がとても楽しく、そして嬉しい。
自分の生活を自分でデザインしていく感覚。

周りの友人たちが当たり前に何年も前に経験したことを
遅ればせながらとても新鮮な気持ちとともに体験している。

事情があってこれまで実家を出られなかったが、
ずっと求めていたのはこういうものだったのだと
気づかされる。

HENCKELSの包丁を友人宅からいただいた2日後、
国産ひのきのまな板をいただいた翌日、
友人が我が家にきたので台所に立った。
そのときにこんなことを言われた。
「楽しそうだね、背中が笑ってる」。
事実、僕は楽しんでいた。とてもとても。
世界がすこし変わったような気さえした。

こんな些細なことを積み上げて、構築していく自分の生活。
それをデザインする楽しさを感じるこの頃だ。

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2010年07月04日

間、というテーマ


南麻布に居を移し、早いもので一月が経った。

驚くほど生活基盤を整えられていないことに我ながらあきれるものの、
それほどの不自由を感じることもなく快適に暮らしている。

あえて困っていることを挙げるとすれば、冷蔵庫がないこと、
そして調理器具や器がほとんどないことくらいか。

この時期の冷蔵庫の不在は、さすがに無茶だと思い知らされた。
せっかく買ったりいただいたりした美味しい野菜なども、常温保存
なので傷みがすぐに進む。
チーズなどの傷みやすい食材はまず買うことができない。
また、客人があったときなど、ドリンクを冷たいままに保てず
氷すら出せないことは心苦しい。

鍋や包丁などの調理器具もある程度買いそろえねば。
テフロン加工の鍋がひとつにカッターナイフ、というなんとも
心もとない道具でこのひと月は空腹をごまかしている。
とはいえ、部屋に帰りつくのは連日3時や4時という状況なので、
いまのところはさして問題もないが…。

インターネットもいまだに部屋に通していないが、曜日に関わらず
毎日のように2時や3時までは仕事場にいるため、いまのところは
それもほとんど気にならない。

むしろ大きな家具などが極端に少ないことは気に入っている。
自宅から大量に持ち込んだので本は増えたが、それだけだ。

本とベッドとソファばかりが目につく部屋をぼんやり眺めていると、
何もないということが、いかに大きな意味のあることかを感じる。
その感覚は、このところの自分のテーマにつながっている気もする。

そのテーマとは、「間」だ。
スペースをあえてつくることによって、そのスペース以上に豊かな
何物かが入り込む可能性が生まれるのではないか。
むしろ、スペースが存在することによってそのスペースを含む全体は
活性化し豊穣さを得られるのではないか。そんなことを考えている。

原研哉さんなら、「白」ということばでもつかいながら、神社の
原型は4本の柱に囲まれた空(から)の空間だったことなどを
引き合いにだしてその仮説を後押ししてくれるかもしれない。

金子郁容さんなら、「動的情報」という概念を持ち出しながら、
ネットワークの大前提であるvulnerabilityのことでも言うだろうか。

文章の本質は、ことばの羅列にあるのではなく、行間にこそある。
いかにテンポよく読ませるかも、いかに読み手を惹きつけるかも、
いかに読み手に考えさせるかも、ことばとことばの「間」のとり方
次第だろう。

武道やスポーツにおいての肝が、時間や距離などのさまざまな「間」を
いかに最適化するかであることは疑いようもない。

殊に「間」を考える際に僕が面白いとおもうのはLIVEな表現活動だ。
演劇や音楽などにおけるプレイヤーとオーディエンスのある生の空間。

ステージと観客席というふたつの場。ステージの上では幾人か、
場合によっては数十、数百人、のプレイヤーたちが、それぞれに
「間」をとり合いながらひとつの表現を生みだしていく。
そこでの「間」のとり方に成功した場合、心地よい緊張状態を保った
有機的ななにものかが生成される。
この強度によってオーディエンスへの感染力は変わってくる。

その一方で、プレイヤーはオーディエンスとの「間」も構築していく。
どんなに崇高なコンセプトやどんなに高い技術があろうが、
そこにオーディエンスがコミットするスペース(「間」)がなくては
その両者の関係は冷めたものとなるしかない。

逆に、多少の荒さはあっても、無性にオーディエンスを惹きつける
ようなものも確かに存在する。
そしてそんなものに触れたとき、オーディエンスはもはや単なる
受け身の受信者ではなくなる。

オーディエンスが投げかけたなにかしらのコミットメントが、
ステージの上の表現に作用する。確実に変化を生みだす。
その瞬間、意識の有無に関わらず、それまでのオーディエンスは
表現活動の共犯者になる。

そして当初のプレイヤーとオーディエンスの垣根はなくなり、
受信と発信が交互に、そして限りなく繰り返され、その場の空気自体が
個々の能力を超えて豊穣なものになっていくのを感じる。

この絶え間ないスイッチングのために必要なものも、やはり
「間(スペース)」なのではなかろうか。僕はそうおもう。
スペースがあるからこそ、そこに何かを投げ入れることができるし、
それを受け取ることもできるのではないだろうか。と。

こうして勢いで「間」について書いてみたが、僕のなかでこのことばが
恐ろしく整理されていないことに気づいた。
いくつかのレイヤーにまたがってことばをつかっている。
ねじれの位置にあるものを無理くりつなげているところもあるだろう。

ただし、この「間」ということば、そしてその考え方はきっと僕に
とっての何か大きな視座を与えてくれるものだろうという確信もある。

演劇の道へと大きく舵を切った友人との幾度にもわたる会話、
芸術への深い造詣をもつ南麻布のマダムとの深夜の会話、
昨晩、夜明け前まで続いた、静かに心躍る登戸でのあの会話。
書籍、雑誌、写真、演劇、映画、サッカー、テニスなどの刺激。
デザイン、編集、空間構成、インタビュー、さまざまな活動。

みればみるほど、聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、そして
話せば話すほど、すべてが「間」のアイデアに収束していきそうな
そんな予感をおぼえる。
もしかしたらこれは単なる補助線で、その先にもっと別の
なにかがあるのかもしれないけれど。

よちよち歩きの生まれたてのこのアイデアを大切に育てていくこと。
その一方で、あらゆる局面で適切な「間」をつくる(保つ)術を
見つけていくこと。
このあたりが当面の大きなテーマになりそうだ。

まずは、あの部屋に腰を下ろしたときに見えるところから。
あせらずゆっくり探していくことにしよう。

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2010年05月04日

エアポケットの再発見


3日、昨晩からの仕事を昼過ぎに切り上げ、江の島へ。
昼間の江の島を訪れるのはおそらく10年以上ぶりのこと。

ここ最近は、鵠沼海岸や鎌倉(〜鎌高あたり)までは行っても、
その先には足が伸びずにいた。
夜中や明け方に友人たちとノリで江の島やその付近まで
ドライブするようなことはあったけれど。

そんなわけで(昼間の)江の島は僕にとってぽっかり抜け落ちた空白、
まさしくエアポケットのような場所だった。
近くて遠い、心理的になんとなく遠い場所。

ところがそんなエアポケットを訪れてみて感じたのは、
思いの外にそこが気持ちのよい場所であり、
日ごろ触れることのない刺激を有する場所であるということ。

参道のあの込み具合にはうんざりしそうになるが、
急勾配を歩きながらなんとなく感じる空気の流れは心地よいし、
沿道の商店や旅館、民家に植物なんかにも面白い発見がある。
そしてなんといっても海と岩のつくるテクスチャの豊かさ!
(視覚情報だけでなく、潮風のにおいや波しぶきの味なんかも含め)
一緒に訪れた彼女の一眼レフを借りて何枚写真を撮ったことか。

改めて見渡してみると、身の周りには
こういったエアポケットのような場所が実に多い。
そのエアポケットを好奇の目をもって訪れることで
得られるものはとても多いのではなかろうか。
そしてそれは空間だけでなく人間関係にも同様に
当てはまるのではなかろうか。

きょう一日を思い返してふとそんなことを感じた。


江の島(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%B3%B6&oldid=31760410

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2010年04月26日

『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』読了。


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『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』読了。
エンターテイメント的でスラスラと読めるけれど、
エッセンスはきっちりつまっていてなかなか興味深かった。
ストーリー自体は紋切り型で特にひねりがあるわけではないけれど、
それが逆に「マネジメント」というものに集中できてよいのだろう。

エピローグにある「プロダクトアウト」から「マーケットイン」を意識した
してやったり的な台詞には個人的に思うところはあるけれど。。

ともあれ、高校の野球部みたいな非営利組織に「マネジメント」を適用する
という考え方を分かりやすくイメージさせてくれるところは素晴らしい。
これまで経営学なんて見向きもしなかった(あるいは知らなかった)人たちが
そういう「マネジメント」の使い方に気づくことができるだろうし、
そういった視点をもつためのきっかけになるだろうから。
ドラッカー自身、営利企業よりも非営利の組織運営にこそ興味があったというし、
(金子郁容さんが「新しい公共」関係のイベントで言っていた。)
NPOのような思いのある組織に、その思いをカタチにするためのツールとして
マネジメントやマーケティングの考え方が入っていけばおもしろい。

これだけ、この本が話題になって売れてしまったから、
二匹目のドジョウを狙ってコトラーとかポーターとかの小説も出てきたりして。
『もし女子高生が文化祭にむけコトラーの『マーケティング・マネジメント』を読んだら』なんて。
ところで、読んだことがないので分からないけれど、
神田昌典さんの小説もこんな感じなのだろうか。

それにしても、世のなかエンターテイメントじゃないとダメなんだとつくづく思う。
こういう分かりやすさとか軽さとか、実は最近ほんとに苦手…。


岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』 http://www.amazon.co.jp/gp/switch-language/product/4478012032/ref=dp_change_lang?ie=UTF8&language=ja_JP

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2010年04月02日

山本耀司、男たち。


1日夜、ヨウジヤマモトのコレクションに行ってきた。
ヨウジのショーなんて見たことないな、と思っていたら、
日本でのコレクションはなんと19年ぶりとのこと。
ヨウジでパタンナーをしている友人に声をかけてもらったので、
そんなことも知らずのこのこと会場の代々木第二体育館に行ってみたのだが、
行ってみて驚いた。

タイトル「THE MEN」に表れているが、耀司さんが選んだ「男」たちが、
耀司さんの服を着て、ランウェイというストリートを彼らの歩き方で歩く。
年齢も雰囲気もてんでバラバラ。

ストリートで出会えばそれぞれのやり方で挨拶を交わすし、
スポットライトのなかでジョジョ立ちなんかもする。
トルシエ氏なんかはバタついたリフティングまで披露する。

一見、なんだかとてもラフだし、おおらかな雰囲気。
でも、その感じがとても良かった。
ゆるやかにまとまりながらも、はめられていないし、
「男」たちが「男」たちでいる感じにとても好感がもてた。

また、音楽がよかった。服や照明と見事にミスマッチというか、
かなり肩の力が抜けていて。
「とんび」やら「ななつのこ」やらの童謡が、
ライブで演奏されていて、その感じがなんともよかった。
(ちなみにミュージシャンたちはモデルとしても登場)
コレクションのラストで耀司さんが出てきたときは、
さすがに音楽も一変してファンキーでかっこいいものだったけど。

それっぽい人たちが、それっぽい服を、それっぽく着て、
それっぽい音楽のなかで、それっぽい照明を浴びて、
それっぽいショーを演じる。そんなものとは全然違った。
ほどよくヌケていて、ユーモアがあって、それが逆にかっこよくて、
まさにちょうどいいバランスだった。

会場が丹下健三さんの代々木体育館というのもよかったな。
席の関係で、ひとつひとつの服はあまり見れなかったのは残念。

Yohji Yamamoto official site
http://www.yohjiyamamoto.co.jp/jp.html#/yy/brand/informationdesk/2010.03.11/

コレクションの写真が早速レポートされていたので、
気になるかたはこちらもどうぞ。

Fashionsnap.com ― Report YOHJI YAMAMOTO THE MEN
http://www.fashionsnap.com/report/1011aw/yohji-yamamoto-the-men/

それからコレクション前に編集者の後藤繁雄さんが行なったインタビュー。
山本耀司という人の美意識とか服への思いなんかがかいま見れて
興味深かったのでこちらもよければ。

high fashion ONLINE ― Shigeo Goto Meets Yohji Yamamoto
http://fashionjp.net/highfashiononline/feature/interview/yojiyamamoto.html

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2010年03月18日

Japanese whalingについて、ひとつの映像から

オーストラリアの捕鯨反対を日本人への
偏見と差別感情からくるものとする映像。

かなりグロい映像もあるのでご注意ください。
気分が悪くなったら途中で見るのをやめてください。

それから煽りっぷりもなかなか。。
でも、捕鯨議論のひとつの側面ではあるのかも。
(よく調べていないのでわからないけれど)





オーストラリア人がディンゴやカンガルーの虐殺を気にかけないように
日本人である僕も捕鯨の実態をきちんと気にかけていない。

なんでだろう。
自分にとってリアルではないから?

じゃあなんでリアルでないのだろう。
クジラの肉なんて一度か二度かじったことしかないから?
日本人のことを信頼しているから?
目の前で起きていることではないから?
生きやすくするために感覚にふたをしているから?
そもそもリアルに思えないのは自分だけ?

「ガラスの中(IN VITRO)」ということばで補助線をひいてみる。
思いのほかしっくりきた。
いのちの問題もまるでガラスの向こう側の存在のよう。
ガラスという絶対的な膜をはさんで
こちら側と隔てられた小さな世界のなかの出来事。
(そしてそれを眺める自分は創造主)

いのちというものが身近に感じられない。
生も死も上っ面以外は大切に隠蔽されている。
いのちはガラスの奥にしかない。
だからこそ気をつけていないと、とても軽く思えてしまう。
この軽く見えてしまうことへの危機感はある。
それでいいはずはない、と直感的に思う。
ただ、そのバリケードもそこここで破られている気もする。

このとてつもなく軽くてフラットな感じはなんなのだろう。
foundationのなさゆえのものなのか?
(occupationの土台としてのconstitution、
constitutionの下地としてのfoundation)

とりあえず書きながら考えはじめてみたはいいけれど、
まとまりそうにないので、つづきはまた改めて考えよう。

ちなみに、この映像について知ったのはこの記事でした。
記事の内容についての価値判断はここでは控えます。
http://zaian.mo-blog.jp/weblog/2010/03/post_18f0.html

posted by wiggler at 02:16| Comment(0) | memos | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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